大仙院(だいせんいん)は、京都府京都市北区にある臨済宗の大徳寺内にある塔頭寺院です。永正6年(1509)に大徳寺76世住職大聖国師(古岳宗亘(そうこう)禅師によって創建されました。
古岳宗亘和尚は、後柏原天皇や一条房冬、三条公兄らの公家、六角貞頼、小原定保らの武家の帰依を受け、大永2年(1522)に後柏原天皇から仏心正統禅師の名を賜り、天文5年(1536)には後奈良天皇から正法大聖国師の号を請けておられます。
大仙院では開祖古岳宗亘禅師のあと、大林宗套、笑嶺宗訴、春屋宗園、古渓宗陳といった名僧が続きました。また大仙院は、茶の湯を大成された利休居士が、生前から親しく詣られたところとして有名です。
利休居士を中心とする茶人の系譜からは、歴代和尚がたと密接なつながりがあったことがわかります。
大仙院には、室町時代随一といわれる庭園、方丈建築、襖絵など、高い評価を受けている貴重な文化財があります。
襖絵は相阿弥、狩野元信、狩野之信といった室町時代の巨匠が手がけた作品で、室町時代の雰囲気を今日まで見事に伝承しています。
大仙院の歴代和尚方には、多くの意気の推進者が居られます。
三世古渓宗陳和尚は、豊臣秀吉が醍醐の三宝院に庭園を築くに当たって、大聖国師作庭の枯山水庭園の庭石を没収しようとした時、身を投じて防がれたという逸話があります。
沢庵漬けで広く知られた七世沢庵宗彭和尚は、紫衣事件で徳川幕府に抗弁した人であり、また書院「拾雲軒」で宮本武蔵に剣の極意を授けたともいわれています。
古岳宗亘-Kogakusōkō-大徳寺76世 56世實傳嗣 天文17年(1548)84才寂大仙院を創建。後柏原(ごかしわばら)天皇、後奈良(ごなら)天皇や一条房冬、三条公兄などの公家、武将などの帰依(きえ)をうけ、後奈良天皇からは正法大聖国師の号を受ける。禅師の語録「生苕稾(すいちょうこう)」が残存する。 |
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傳庵宗器-Den'ansōki-大徳寺88世 76世古嶽嗣 天文2年(1533)51才寂 |
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江隠宗顕-Kōinsōken-大徳寺102世 76世古嶽嗣 永禄4年(1561)56才寂 |
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古渓宗陳-Kokeisōchin-大徳寺117世 107世笑嶺嗣 慶長2年(1597)66才寂 |
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仙岳宗洞-Sengakusōtō-大徳寺122世 107世笑嶺嗣 文禄4年(1595)51才寂 |
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蘭淑宗秀-Ransyukusōsyū-大徳寺140世 117世古渓嗣 慶長4年(1599)寂 |
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雲英宗偉-Un'eisōi-大徳寺141世 122世仙嶽嗣 慶長8年(1603)44才寂 |
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沢庵宗彭-Takuansōhō-大徳寺153世 126世一凍嗣 正保2年(1645)73才寂 |
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紫林宗芳-Shirinsōhō- |
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探玄義達-Tangengitatsu-
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益州宗進-Ekijūsōshin-平成元年(1989)寂 |
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南岳恵京-Nangakuekyō-大徳寺517世 |
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桃林宗園(尾関宗園)-Tōrinsōen-昭和37年副住職 昭和40年院住職就任 平成19年大仙院閑栖に就任 ※閑栖…隠居した禅僧 |
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良章宗貴(大和宗貴)-Ryoshō sōki-平成11年(1999)大仙院副住職となり、平成19年(2007)大仙院住職に就任 |